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生き方の教え(2026年3月)
ある新興宗教の宣伝用の新聞をもらいました。内容のほとんどは、不思議な神の助けがあって身体が良くなったというものでした。たくさんの信者が一堂に集まっている写真が載っているわけですから、そうした不思議はあったかもしれません。でなければ、人が集まるはずはありません。
不思議とは、道理で割り切れない、人の考えを超えた現象が現れることを言うのでしょう。
では、不思議は信仰の専売特許でしょうか? 世の中では、信仰と関係なく偶然な出来事も起こっていまして、これも不思議な出来事と言っている場合もあります。今日では、ストレスが原因で病気になったり、病気の治りが遅れたりしますが、医者の話によると、心の在り方で病気の治る人もあるということです。この場合、不思議は消えて道理が生きてきます。一心に神仏に祈って心を無にすればストレスも去り、身体が良い方へ代謝して元気になることがあります。人間の身体がつくられた時から、そのような機能が備わっていたのです。
さて、信仰によって不思議を求めるにも、その内容はいろいろであります。ただ自分さえ助かればよいという無恥な自己欲求型、助かるために何が有効かを見極め、自分の精神を修養させて祈る型、成ってきたことを認め、心を無にして神にもたれる型・・・など。いろいろありますが、本物の信仰は、結果よりも、その求めていく内容にあると私は思っています。
信仰によって不思議な力をいただいたという人も、必ず限度があることを知っておくべきです。そうでないと、人間はとんでもないところへ行ってしまいます。人の生命は、どんなに修理ができても限りがあって、何百年も生きられません。そうであるとすれば、信仰とは心のほこりを払い心身を磨くことによって、身体の動きや、知能の働きの素晴らしさに目覚め、天理に沿った生き方を知ることだということになります。
つまり、「おみち」は生き方の教えです。そして、創造の神は私たちの生き方の定規を指し示してくれたのです。
人間の知能は今日までに、たくさんの不思議を道理に変えてきましたが、まだまだ解き明かされていないことがたくさんあります。しかし、いつの日にか必ず、すべての不思議が道理に変わっていくことでしょう。その時は、実に色とりどりの道理が現れて、それらによって良き心に成就されるものだと考えます。
要するに、この世の不思議と言われていることは、生き方の定規の中にすべてインプットされているのです。